なぜ日本人はブラジルへ。サンパウロ日本移民史料館で学んだ日系移民の歴史

SightSeeing
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サンパウロに来たら必ず訪問したいスポットの一つ「ブラジル日本移民史料館」。

こちらに来てから行こう行こうと思っていたのですが、先日ようやく行ってきました。

これまで「政府のプロパガンダに騙られてブラジルに来た移民」(失礼な言い方で申し訳ないです)「そうした逆境の中でも地道な努力を続け、ブラジル内で存在感を示してきた移民」というイメージが僕の脳裏にこびりついていました。

こうした歴史は日本でもあまり学ぶ機会がないのが現実で、僕のこうしたイメージも超断片的な情報に基づいた想像であるわけで。実際に移民資料館に行ってみるとやはり知らなかったことも多く、非常に良い経験になったと思うことができました。頭の整理も含めてちょこっと博物館で思ったことをまとめてみたいと思います。

  

ブラジル日本移民史料館とは

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ブラジル日本移民史料館は、サン・パウロの東洋人街リベルダージ地区にある資料館です。

文協(ブラジル日本文化福祉教会)の7階~9階が展示室となっています。(月曜日定休)

ブラジル日本移民史料館

ブラジル日本移民70周年を迎えた1978年に開館し、日本人移民の歴史、生活の様子、発展の過程、日本文化普及に対する貢献など、多くのテーマに関する史料が展示されています。郷土博物館のような場所で、動画資料も交えながら理解を深めることができます。

そもそも何故ブラジルだったのか。いつ来たのか。

今までのイメージでは「日本国内の不景気で職口が減少したため、政府がブラジルに行けば広大な農地と安住の地がある」みたいなプロバガンダを打ったのだという程度の理解しかありませんでした。

これは間違ってはいなかったのですが、そもそもブラジルがその行き先として選ばれたのには、世界史が大きく関わっていたということはあまり知られていません。

農奴解放の波により労働力不足に陥っていたブラジル。不景気で労働者があふれていた日本

移民が乗船した船の再現展示

日本からの意味が始まった20世紀初頭から少し前、19世紀後半といえば、アメリカで南北戦争が勃発していた時期と重なります。南北戦争は皆さんが御存知の通り、奴隷解放を謳う北部の勝利に終わったわけですが、この奴隷解放の波は南米にも押し寄せます。

1888年に奴隷制度の廃止がブラジルでも実現するのです。

それまでアフリカ大陸からの奴隷によって支えられてきたブラジルの大規模プランテーション農家でしたが、貴重な労働力であった奴隷がいなくなり、労働力不足に悩みます。低単価であくせく働いてくれる労働力なんてそうはいないわけですから。

一方で、日本はこの頃日露戦争に勝利したものの、賠償金が得られず、戦争での重い出費負担だけが残るなど、経済的に困窮していきます。景気も悪くなり、日本政府が国民の面倒を見切れなくなっていきます。

この2国の需給の一致、つまり人が必要なブラジルと人が余った日本という構図により、皇国植民会社はサンパウロ州との間に契約を締結、移民を多く日本から送り出したのです。

どうして日系移民はここまでの存在感を発揮できたのか

日系移民のプレゼンス

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日系移民が現地で作った農機具の展示

その後の日系移民の発展の詳細については是非ブラジル日本移民史料館へ足を運んで頂きたいのですが、日系移民の存在感は今日でもなお残っています。

寿司、焼きそばはリベルダージ以外でも各地で食べることができますし、簡単な日本語を挟んでくるブラジル人は少なくありません。

なんといっても、日本人というだけで敬意を抱く人が多くいることで、旅行者にも現地在住者にとっても有り難いところです。

これは一重に移民とその後に続く日系ブラジル人の功績に他ならないと感じます。

しかし、話を見ていると日本人の真面目な素養に加えて、ある歴史的な事件がこうした功績を残すことに影響を与えてきたようです。

もともと母国への帰還を前提としていた出稼ぎ労働者

日本人は真面目、仕事に一生懸命、細かいことにも気がつく。

これが事実としても、天国のような生活を約束されて、実際に来てみたら奴隷同然の扱いを受けたわけです。

しかも、数年働いて稼ぎを貯めたら日本に帰国するつもりで、ブラジルに来ているわけです。

いくら日本人が我慢強いとはいえ、契約が終わったらさっさと日本に戻ろうと思うのが当たり前です。

それが現地に根付いて、膨大なエネルギーを費やしてコミュニティの発展に尽くしたわけでして。相応の理由が必要だと思うのですが、その理由の一つが第二次世界大戦における日本の敗戦だったようです。

敗戦により生まれたブラジルに骨を埋める覚悟

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2005年に行われた宮中歌会始に出された日系移民が詠った短歌

それまで日本に帰ろうと考えていた日本人ですが、あっという間に世は第二次世界大戦に突入してしまい、そして日本は敗戦したわけです。

祖国の惨状を知るにつれ、日本に戻っても仕事があるとは思えず、”もうこれはブラジルで生きていくしかない”という覚悟が生まれたのだそうです。

ブラジルへ来る前まで持っていた夢は破れ、そして日本に戻る願いも消え、全てを失った人々の気持ちを考えると辛い気持ちになりますが、こうした「日本には帰れない」という覚悟が戦後の日本コミュニティのさらなる発展につながっていきました。

ちなみに、この戦争に負けたか勝ったかという点について、ブラジルの日系コミュニティ内では大論争になったそうで、こうした記録(当時の新聞記事など)も資料館には展示されています。

教育は経済的に大きな武器になると知っていた日本人

戦後の日系2世、3世の活躍に関する史料の中に興味深い記述がありました。

当時の全国私立公立高校学力テスト(正確な名称は失念)に合格した学生のうち日系人の割合は10数%。一方で、日系人が人口に占める割合は0.8%だった。

これに近い話をある本でも読んだことがあります。

ブラジルにはこんなジョークがある。「サンパウロ大学(日本でいう東大)に合格したかったら、日本人を一人殺せ」

ちょっと過激な表現ですが、ブラジル人ジョーク大好きなので、愛嬌として受け取っておくとして、ブラジル人にここまで言わせるほどの日系人の学力の高さは本当にすごかったようです。

結局何が言いたいかというと、日本人は教育が長期的に有意な投資であることを強く理解している民族で、その思想が日系ブラジル人が社会的成功を収めることができた一因なのではないかということです。

”貧しい家庭に育っても、教育だけはしっかり”という観念は広く日本人に普及していて、さらにいうとこうした民族って日本人くらいなのではないかと。(理由に思う所はありますが、本論ではないので省略します)

多くの国で、貧困層の人的資本に対する投資の欠如が常にテーマになっていて、ここブラジルでもそうした話をよく聞きます。

自分たちで学校をつくり(多い時には400校以上の日系人学校がブラジル国内にあったそうです)、教育を施したブラジル日系移民の皆さんの精神には恐れ入ると同時に、日本が育んできたそうした背景を今一度深掘ってみる時代なのだろうとひっそり思いました。

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